バナナでもわかる話

計量経済学・統計学が専門の大学院生です。統計学・経済学・投資理論・マーケティング等々に関する勉強・解説ブログ。ときどき趣味も。極力数式は使わずイメージで説明出来るよう心掛けていますが、時々暴走します。

ノーベル賞受賞者である本庶佑先生の「教科書を信じない」をうけて

本庶佑先生がノーベル賞を受賞したということで話題になり、それと共に会見で仰られた

 

「一番重要なのは、不思議だな、という心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持って本当はどうなんだろうという心を大切にする」「つまり、自分の目で物を見る。そして納得する。そこまで諦めない」

 

という発言も話題になりました。

 

その中で特に「教科書に書いてあることを信じない。」という一文がバズワード(センテンス?)としてネット上に広がっています。

 

 

これ、結構大事な言葉だと思っているんですけど、ただ恐らく

 

「文理問わず大学院で勉強をしたことのある人でないと、ニュアンスの捉えにくい言葉かな」

 

と感じています。そこで、特に教科書の読み方に焦点をあてて、少々思ったことを書いておこうと思います。

 

 

 

 

教科書を信じない

まず、この発言に対する誤解をあげておきます。

 

・教科書は捨てなければならない(or教科書の記述を理解する必要は無い)

・教科書を読むときは、本当かどうか確認するまで次に進んではいけない

 

 

まあ、1個目はネット上でもかなり話題になりました。

 

「ノーベル賞の人が教科書を信じないと言っているわけだから、教科書は碌なことが書いていないに違いない。捨ててしまおう。」

 

という思考は、むしろ本庶先生の発言に対して逆行する思考です。

 

本庶先生の発言の本質は

「自分が真に(?)納得するまで、納得するな。何かを盲信するな。」

というところにあり、

 

「ノーベル賞受賞者の発言を盲信して、何かを決定する」という行為はこの発言の真意に反します。

 

 

じゃあ、次に考えることとして、

 

「そうか!教科書の内容を信じてはいけないわけだから、教科書を読むにあたっては自分の目で正しいか確認するまで次に進んではいけないのか!!」

 

となる方もいるかなと思うわけですが、実際やってみるとわかります。進みません。

 

 

1週間かかっても1ページ進むかどうかです。しかも、本というものは、結構読んでから意図がわかったり、目的が判明してくるものも多いので、このやり方をすると、いつまでたっても教科書の記述の真意を捉えることは出来ません

 

故にこの方法は、現実的ではないし、恐らく先生の発言も、こういう意図での発言ではないと思います。

 

 

教科書を読むスタンス

そもそも、上のような誤解をする人は、教科書と向き合う上でのスタンスを誤解しているのだと思っています。どういうことかというと、

 

教科書を読むときに、

受け身で何かを教わろうとして読んでいませんか?」

 

この状態だと教科書と自分は主従関係教える立場と教わる立場で教科書の方が立場的に上なんです。これだと盲信せざるを得ない。

 

 

 

じゃあと、教科書を読むときに

「教わる気では読むけど、気になったとこは盲信せず追加的に調べるようにしてみるのはどうか」

 

と思うかもしれませんが、足りません。これでは教科書と自分は良くて対等程度の関係にしかなりません。要は医者の診断を受けても、それを信用せずセカンドオピニオンを求めるよう努めているだけです。

 

 

 

 

これでもまだ姿勢としては甘いんです。そうではなくて

 

「教科書と議論する気で読む」又は「教科書に文句をつける気で読む」

 

くらいの姿勢が必要だと仰っているんだと思います。

 

誰かと議論をするためには、相手の発言を理解しなければいけません。理解したうえでおかしな点があれば追求するし、より議論を高次にもっていくために自らも新たな知見を提供する必要があります。

 

そして、堅牢な論にするためには、一種の屁理屈に対しても明確に反論出来るように備えておかなければなりません。そのため、少々難癖じみた文句を想定してみて、もしあるのであれば、それに対する反証、無いのであれば教科書の記述よりも、より厳密で正しい記述とは何なのかということを自ら追求する必要が生じます。

 

ここまで出来て初めて教科書と対等もしくは上の立場に立つことが出来ます。

 

恐らく求められているのは、この立場であり、別に何でもかんでも教科書に書いてあることは真実かどうか確認しろと言ってるわけでも、教科書はいらないと言っているわけでもないわけです。

 

使い古された言葉で言えば「批判的に読む」ということですが、そのあなたの「批判的に読む」姿勢は、形だけで終わっていませんか?本当に「批判的に読む」という姿勢を貫けていますか?そのような姿勢こそが、こと研究においては重要であるということを述べているのだと思います。

 

 

 

 

勉強ってのはそういうもの

 

私自身、勉強をする際は常にこのような姿勢を忘れずにいるつもりなのですが、実際実践しようとするとメチャメチャしんどいです。3日で1ページしか進まなかったなんて日もザラにあったりします。

 

 

でも勉強とは本来はこういうものなんだろうなと思っています。

 

最近は勉強というと受験勉強や資格勉強のイメージが強くなってしまいました。

受験勉強や資格勉強などは、結局時間的な猶予がないので「とりあえず飲み込む」だとか「理解はしてないけど、妄信して演習に取り組んで身に着ける」みたいなことが多々あって、その訓練をしてきた人が試験の場で勝者となることが多いため、世間的にも勉強といえば教科書の内容を盲信するものというイメージが強いと思うのですが

 

この意味での勉強は結局、綺麗に整理された先人の知の集積を、価値も分からずガラスケースに入れて眺めているだけで、新しいことや、今までにない事実を発見することは出来ません。

 

 

一方で研究はガラスケースを眺めたり整理したりする作業ではなく一種のイノベーションを生むことを指します。

 

だから当然研究においては「教科書を盲信する勉強」はするべきではないし、「批判的に読む」ことで得られた知見こそがその勉強の成果であって、その成果のベースにあるものは自身の納得感と他者に対する説得力です。その成果を軸に、自分が到達した最先端の知見に対して一定の付加価値を与えることで、初めて研究が成り立ちます。そこに試験の点数なんてものは全く関係してきません。

 

 

 

 

これくらい真摯に取り組まないと、研究というものは成り立たないわけで、

 

ガラスケースに並んでいるものを棒暗記して良い大学に入ってきた、「ちょっと頭の回転が速くて記憶力の高い脳力自慢」では、試験は受かっても研究者にはなれないよという厳しいご意見のようにも聞こえました。